ケーススタディが増えるほど臆病になるけれど
全部がケーススタディだし、1回をケーススタディにしなくていい
ちょっとしたビジョンのズレがあった。最初から噛み合わなそうだとわかっていたけど、断れないという最悪の理由で協業してみることになった案件が、案の定不穏な空気になった。
そもそも声をかけてきた動機は恐らく使い勝手が良さそうだから。それをわかったうえで、私もまた「まあ経験にはなるし」と消極的に受けた。
私はめちゃくちゃ真面目で石橋を叩きすぎて壊すタイプなので、段取りからガイドラインからKPIや収益化まで、最初の段階で目星をつけておきたい。一方相手は「新しいことをやりたい。他社がやっていることはやりたくない。ほかと同じじゃやる意味ない」と言い、思いつきベースで深夜にも早朝にも送られてくるメールでは毎回言う事が変わり、ブレるというよりも目移りが止まらない。且つ、アイデアを広げることに興味はあるけど、収束させることにはその必要性すら理解していなかった(この類の人と出会うのは初めてだった)。
私は会社員歴が長く、組織の中であるいはステイクホルダーと折衝を重ねながら目的達成のために定めた期日通りに物事を遂行する、というやり方は万人に共通だと思っていた。だがしかし、「目的って必要?楽しくやりたくない?新しいことやらないと意味ないよ!なんかかっこいいことやりたい!従来のやり方なんてくそくらえ!」と臆面なく言い切る、しかも演技やハッタリではなく純粋にそう思っている人が存在するとは。
そういうわけで、目的達成のために最短距離を最小効率で行きたい私 VS 「俺は革命を起こす!」タイプとは、何もかもが噛み合うはずもなく。
お互いあたりまえに違和感しかないので、「私はビジネスサイドで見てしまうので、『新しいことを』『楽しくやる』にブレーキをかけてしまいます」と切り出したところ、「資本主義の枠内でやりたくないんだよね」と斜め上の回答が来たので、「ここまで楽しかったです!またビジネス系が必要な時には」と早々に撤退した。
スッキリ!!!
でも、自分に余裕が無いから奇想天外さを楽しめなかったのかとか、(後悔はないものの、物理的にも精神的にも)ほかの関わり方はできなかったものかとか、適応できないのは自分の問題ではないのかとか、悶々と考えてしまう。
この話を友人にしたところ、「面白がってやれたらまた違う経験ができたかもしれないね、たしかに。でもうやむやにしないで撤退したのは英断だし、それでよかったと思う。あと、ケーススタディにはしなくていいと思うよ」と言われました。
「ケーススタディにしなくていい」、この発想が目から鱗……!
自分ひとりで考え続けたら、この“失敗”がなぜどのように起きたのかの経緯や、「こういうプロジェクトオーナーは合わない」「こういう関わり方は合わない」などうまくいかなかった原因を分析した後、同じ轍を踏まないように回避していく。それは仕事に限らず何においても。
でも友人は、「得意な事って100回したとしてもできちゃうから意識しないでしょ?でもにがてな事は1回やってうまくいかないとにがてって認識してしまうじゃん?にがてな事こそ100回やってみるのもありだと思うんだよね。」と。ゆえに、この1回で何かが苦手などの分析をするのは早すぎると。
ケーススタディにはしなくていい、と言われたのが衝撃だった。
うまくいかなかった事の方が記憶に強く長く残り続けてしまうのだが、そんな風にケーススタディにしなくてよいだなんて。