“役に立たねば病”からの脱出

“役に立たねば病”からの脱出

「だれかの役に立とう、助けようだなんて思わないで。」
「自分は、自分自身のものであり、誰かの救いや目標となるために生きているわけではない役に立たなくてはとか思わなくていい。」

 

ここ最近、別の場所で立て続けに見かけた文章。

 

この言葉が目から鱗すぎて、、、!

 

いままで自分が何にとらわれてきたのか、その核心を突かれた気がした。

 

もともとは文章を書くことが好きだった。今も好きだ。だれに頼まれなくてもお金が発生しなくてもずっと続けている数少ないもののひとつが、書くという作業。書くことで、頭のなかを整理したり、気持ちを伝えたり、記録に残したり、ビジョンを形にしたり、もやもやを言語化したり、自分に言い聞かせたり、それは浄化でもあり昇華でもあり埋葬でもあり、呼吸とおなじ不可欠な行為なのだ。

 

そして、書きたいこと・文章として残したいことがある。

 

それなのに、書けない。

 

自然で切っても切れない動作だからこそ、単なるアウトプットの手段として割り切れず、有意性のあるものでなければと神聖化してしまったきらいもある。

人が読む、こちらの意図を正確に誤解なく読み取ってもらえる文章を、仕事で書いてきた。社内向け社外向け問わず。

文章に限らず、経営戦略の意思決定に携わる時期が長かったことから、“すべては利益を生み出すため”“ステイクホルダーが納得できるよう、現実的・論理的であることが大事”“相手にとってメリットのあるものを提供しなければならない”というビジネス的な考え方が、すみずみまで染みついていた。

 

そしてそれは気づけば、ビジネスと離れた部分でも、考え方のベースになっていた。もともとは直感や感覚が先行するタイプだったから、後天的に論理性を身につけようとかなり意識して会得したもの。だからこそ、その意識がプライベートや趣味でも抜けなくなってしまった。24時間ロジカルであることを自分に課していたといえる。

 

勉強が好きで、特に語学は趣味なのだが、語学だとまず論理から理解したい。でも、文章に関しては、リズムや語彙をその時の感覚で指に伝えたい。だけど、何かを書くからには読む人にとってなんらかのベネフィットが残るものにしなければ、という思いが発動してしまう。自分しか読まない日記とちがって、プラットフォーム上で人の目には触れるけどただ気持ちを綴るだけの文章は書けなくなってしまったのだった。だって人は名もない自分の気持ちの移ろいなぞに興味もなければ、そこから学ぶものがあるはずないのだから。

 

加えて、文体は統一したいとか話し言葉はつかわないとか漢字のひらくとじるは表記ゆれしないとか、そういうのを守りたいという自分のなかのまじめさに根付いた変な几帳面さが発動してしまい、感情だだもれ文体めちゃくちゃな文章を本当は書きたいのにブレーキをかけてしまうというループに入ってしまった。

 

そういうことを気にし出すと、「便益のある文章」「論理構成のしっかりした文章」「日本語として正しい文章」を書かなければならないという強迫観念になり、リズムのままにあふれるままに綴ることはできなくなってしまった。

 

でも。べつに役に立とうなんて思わなくていいんだ〜〜。自分のために書いているもので、どこまでいっても自分自身のものなんだから、、!

と衝撃を受けたのが、冒頭の言葉であった。

思えばこの“役に立たねば病”、そもそもの由来はというと、自己肯定感の低さから来てた気がする。

 

存在そのものを肯定される体験をしてこなかったので、自分は何か意味・意義のあることをしないと人から求められたり必要とされたりしない、という思いがこびりついていた。

 

そのうえビジネスがそ、の“役に立たねば意味がない病”をさらに加速させることに。

 

「イシューからはじめよ」という有名なビジネス本があるが、ビジネスでは常に課題や未解決の問題を起点としてそれを解決することを目的として戦略や組織をつくる。「それってなんのため?」「効果あるの?」という視点が起点になる。

 

加えて、ビジネスマナーのような「人の時間をもらうならリターンを考えてから」「どんな出口を描いて人を巻き込んでいくかをシミュレーションしておく」といった考え方を自分に染み付かせてきたことが、拍車を掛けた。しまいには雑談すらもこわくなってしまったこともある。「この人になにか有益なことをお返しできるかな」と考えると、ランチにも誘えないし、気軽に相談もできない。

 

目の前の問題を課題化して解決することでビジネスや組織を前進させてきたことを、ありがたいことに評価してもらってきた。それが幸か不幸か、“役に立たねば病”をことさらに増悪させてしまったのだ。

 

そしてその副作用は強かった。

ビジネスとクリエイティブの両立、バランスをとることが本当にむずかしい。良くとらえれば、感覚に理論を掛け合わせることを学んでから視野や巻き込み力は格段にアップしたし、それはつまり調整や交渉につかう(本来必ずしもなくてもよい)オペレーションコストがぐっと下がることにもつながり、投資対効果の観点では効率が良くなったといえる。

 

そしてデメリットとしては、あまりにもビジネスの視点が強くなりすぎて、余白や遊び心の強いもの(説明コストが高くつく)や、息抜きになるような小休止的意味合いのアウトプットを自然と避けるようになってしまった。そういうクリエイティブに罪悪感すら覚えるほどに。

 

ビジネスでは基本的に仕組み化や再現性、汎用性を意識するので、己の感覚や言語化できないセンスに依拠すべきではないということは正。そのベースを支持する気持ちは今も変わらない。

 

けれど、ビジネスを離れた創作活動にそれを持ち込まなくていいんだよ〜〜と自分に言ってあげることにする。自分が楽しいことは大前提で、自分が救われることは立派な存在意義。人の役に立つ立たないはコントロールできることでもなく、人への影響があろうとなかろうと自分自身はなにも変わらないんだよなあ。評価は変わるかもしれないけど、価値や意義が揺らぐものではない。

 

評価が可視化された世界では、バズることが正義だと思いがちだけど。自分を救うアウトプットは自分の聖域だから、人のためではなく自分のための創作をしていって自分を救えれば万々歳なのだ。



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