おとなこそ、思い立ったが吉日

おとなこそ、思い立ったが吉日

消費から創造へ、メリットを考えるのをやめた、解決策にしなくていい

朝が来るたびに絶望していた毎日から、時間が足りない毎日に変わるまで

 


 

こんな言葉を見かけた。

「趣味が消費だとつらい。創造を持つとよい。」

これ、まさしく言語化できていないもやもやだった、衝撃。

 

消費は人を病ませる。なぜなら次から次へと常に新しいものを受動的に待つしかないからだ。受け身でい続けると、与えてもらうのがあたりまえになり、生み出す側への敬意も薄れ、思い通りにならない内容に勝手にいらいらし、評論を始め、尊大な人間になっていく。これは身を以て感じ、危機感をおぼえた。 

 

そして残るは虚しさ。感動したり学んだりなにかを得ていると感じたりせずとも、なんとなく見続けることができる。NetflixもAmazon Primeもテレビも、スイッチを入れれば永遠に無限にコンテンツが流れてくる。自分はいつだって選ぶ側。このシステムが肥大させる。至れり尽くせりあの手この手で、どうにか膨大なコンテンツを1分でも長く視聴させようと視聴者に寄り添いまくっている。ここに人はおごるのだ。選択権は常に自分側、見るも見ないも決めるのは自分、最初の1分だけ見て「なんかちがうな」と思えば一瞬でストップできるし、緩慢なシーンと感じれば何秒でもスキップできる。盛り上がるところ、展開が早い部分だけをつまみ食いもできる。

 

名探偵コナンも愛の不時着も100万ポンドのメニューも、どれも本当に楽しませてもらっている。どの作品も繰り返し観たし、そのつくりこみや構成や展開にうなり、リスペクトしている。

 

でも、それはどこまでいっても消費なのだ。

 

自分では手を動かしておらず、ゆえに達成感も当然にない。充実感も、実になった感も、ない。それなのに、時間を溶かし続けることができる。無自覚に、いたずらに。

 

BGMがわりにとスイッチを入れたが最後、夜寝落ちするその瞬間まで、ずっと享受し続けると、自分で選択して観ているはずなのに、気持ちはどんどんほの暗く落ちていくことを実感した。それなのに、朝がくると、「ああ今日は何を観よう」と落ち込みながらとりあえずスイッチをつけるのだ。この矛盾はいったい何なのだ。しまいには何かを流していないと落ち着かないという中毒症状まで表れるようになった。最初は好んで楽しんで観ていたのに、自由に観続けた成れの果てが鬱と中毒症状だなんて、いったい何事だ。それなのに観続けてしまうジレンマ。もはや恐怖である。

 

その現象が何なのか、どんぴしゃで表現したのが、冒頭の言葉であった。

 

この言葉により、抱えていたもやもやが見事に腑に落ちたその日から、やみくもにスイッチを入れることをやめた。自分の手でなにかをつくり、形になることを始めることにした。

 

といっても、無趣味歴=年齢と年季が入っているのが現実。好奇心が強くミーハーのため、広く浅く手をだしてきたものは数知れず。本に映画、スポーツ観戦も人並みには好き、ピアノやベースも弾いてきた、習字にプール、体操に新体操にバトンと習い事も広く経験、英語や韓国語やタイ語を学び、クロスバイクや街乗りなどイタリア製自転車に乗り、TWICEとBIGBANGはイントロクイズに参加できるほど聴いてきて、フィルム一眼からデジタル一眼、トイカメラなど7台のカメラで写真を撮り、132着を持つワンピース好き、36か国34都道府県を旅してきた。それでも、趣味と呼べるものはないと思っている。

 

だから、とつぜんなにかを始めるのも、途方に暮れてしまうのだ。

 

そこでまず始めたのが、Vlog。ただし、作品としてアップロードするため、ではなく、日々の記録として。作品としてつくるとなると、「コンセプトは?想定オーディエンスは?何を伝えたい?」などを考え始めて企画書をつくるためのリサーチから始めてしまうので、まずは記録と自分に言い聞かせて、撮影を始めてみた。わかってはいたけれど、やるとなると凝り性なので、どハマりしたYoutuberの動画全およそ100本を3周したりそのあと「なぜほかのYoutuberと比較して魅力的なのか」をA4用紙2枚にぎっしりと書き出したり新しくカメラを買ったりと、案の定まじめに取り組んでいる。でも楽しい!

 

考えてみれば、目的がないままになにかをする、ということをもうひさしくやっていなかった気がする……。物心ついてから常に「それはなんのため?」とまず考えてからというのが染みついている。働き始めてからは特に、仕事の思考回路を仕事以外にも持ち込んで、目的がふわっとしているものや純粋な好奇心は試してみなくなっていた。勢いでなにかをやる、とか、軽率に行動する、とか、どんどん減っている。

 

目的のない創造を、今こそやる時なのだ。海外にも国内でだって気軽に身軽に飛び立てず、すこし先のモチベーションを外につくりづらい時だからこそ。

 

このサイトも、目的を定めずにつくったからこそ思うままに書いていける。「思い立ったが吉日」は、財力をあの頃より備えたおとなになった今こそ、存分に楽しめる。時間を味方にできる数少ない機会、軽率にならなくてどうする。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です