好きに理由は必要ないが、やっぱり理由も必要だ
後学のために書き残しておく。
今日は日がな1日、夫の好きなところを考えていた。(「後学のため」の背景と併せて、その理由は後述)
ある友人が、「彼女に尽くしているのにまだまだだって言われる、認めてもらえない気がしてつらい」と言った。「結婚して結構長いよね?どう?結婚」とその友人に聞かれた時、私は「つきあってる時も結婚してからも今も大好きなんだよね」と答えた。
相手のことが大好きという同じ境遇の別の友人に「(夫の)どういうところが好きなの?」と聞かれた時には、「存在すべて、もういてくれるだけでいい」と言った。(臆面なく言うわけじゃないですよ、もちろん茶化してるし笑えるようにという狙いもあるし、この時はお互いののろけ大会だったから。相手によって返しやトーンは変える。)
それほどまでに夫への愛は深く濃く、もはや何があっても揺らがないのではとさえ思える。果たして私はいったいどんな点で夫にこれほどまでに夢中なのだろうか?改めて言語化したい。
◼️ 夫の好きなところ
・自分を良く見せようとしない、いつでも自然体
だれにでも態度が変わらない
・言動に溢れ出るユーモア
解決力、なごませ力、ポジティブ転換力
・おおごとにしない
私は何事も真正面から深くストレートに受け止めて考え込んでしまうタイプなのだけど、夫は「ほら忘れる忘れる」「そんなことたいしたことじゃないよ?」と軽く言う。私の性格をわかったうえで引き上げてくれるこのライトさに、どれだけ救われていることか。妻の機嫌をいなすためのその場しのぎではなく、その軽さが必要だとわかったうえでの反応。性格や空気をとらえることが自然とでき、相手にプレッシャーを感じさせることなく行動にうつせる人。
・素直
「ちょっと〜〜これやってくれてないじゃ〜〜ん」と言った時に「ごめん!」と言えるし、「あの時ああいう態度だったのちょっと傷ついたんだよ……」のようにちょっと言いづらいことを伝えた時にも、自分の正否を語り出す前にまず「ごめんね」と応えてくれる。
◼️ ふたりの関係
今の夫との関係のあり方、人と築きたい最高値に近いものを今のところ築けていると思う。
・存在の肯定
長所だけでなく、だめなところを愛しいとさえ思い合えること。それが存在を肯定することだと私は考えている。その人の魅力や持ち味、こちらにメリットをもたらしてくれるところを愛するのは簡単。そして、血縁関係がないうえに育ってきた環境も異なる他人に、「だめな自分をまるごと愛して」と求めるのは勇気がいる。好きなところも気になるところも一緒くたに受け止め、「そのままがあなたらしいよ」と思い、それを伝えられる関係が、存在の肯定の体現かなと思う。
・心理的安全性
ビジネスでは「対人関係のリスクをとっても、公式・非公式に制裁を受けることはないと信じられる程度である」と定義されているが、夫婦関係ではビジネスのそれとは異なる意味で私はとらえている。「意見や価値観の違いがあっても違いを認め、尊重し、それらを合わせても合わせなくても合わせたくなくても合わせられなくてもお互いへの愛情や尊敬が変わらないこと」だと私は思っている。他人とわざわざ生活を共にすることを「リスク」としか考えてこなかったのは、この実現が家族でさえむずかしいことを体感していたからだ。ゆえに最も求めていたものでもあると思う。それを、どちらか一方だけでなく、お互いに持てていることは、今でも信じられない思いでいっぱい。
・対話ができる
夫婦として人生をともにすることは、時間やライフプランを共有すること。その共有は、時に意見の対立や議論を呼ぶこともある。気持ちや意見の交換とすりあわせに必要なのは、時間や体力もさることながら、対話と想像力。対話ができるかどうかが、関係持続において最も重要な要素とすら思う。対話、一見だれでもだれとでもできそうに見えて、実は高等技術だ。ただし、後天的に身につけられるのが救い。共通の目的やゴールを設定し、相手の主張を理解し、咀嚼し、自分の考えを整理して伝達し、異論や反論を客観的に受け止め、目指す姿へお互いの考えをすりあわせていくことの、なんと骨の折れることか。そして人間には感情という避けて通れないものがあり、これがしばしば合理性を失わせる。論理と感情を両方操りながら、家事の分担や引越しの手配、生活様式の改善やライフプランニングなどを決めていくのは、「一緒にいて楽しい」だけではむずかしい。対話力は人間力に直結すると思うほどに重要。
・お互いへの尊重
同じ熱量で、というのはむずかしいけれど、尊重は一方通行でないことがどんな関係においても土台にあるべきだと思っている。親子、教師と生徒など、一見上下に見える関係でも、それはただ役割の違いであると考えるようにしているので、役割や性格や価値観がちがう者が寄り添うためには、双方向の尊重が必要だと考える。尊敬と尊重、どちらも卑屈や個人主義とのバランスがむずかしい。それでも、夫婦であるまえに人間対人間のつきあいなので、お互いを別の個体として認識したうえで受容する精神を根底に備えていたい。
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「後学」というのは、いつかすこし(一時的に)嫌気がさす時もきっと来るだろう、と感じたから。
入院するほど夫が体調をくずし、予後に至れども思うように全快しない日々が続いている。メンタルにもこたえていると本人も自覚し、安易に同調しなかったけれど同じように私も感じている。介護とは全く言えない、介護でもなんでもない状況なのに、生まれてこのかた健康体で生きてきた私にとって病と暮らすことは初めてで、戸惑うことも多かった。自分のつらいこと悲しいことやるせないこと納得いかないことを、現在進行形で病を患っている人には言えない。自分はいつだって励ます側。
喜怒哀楽のどれかを意図して抑えるようにすると、感情はバグる。もともと機嫌が高値安定で喜怒哀楽のネガティブな部分は表に出さずに処理できるタイプだが、意識的に身につけたとはいえそれが強制される状況はつらい。(夫は「看病して」だとか「気を遣って」だとかは一切言わない。私が勝手にそうあるべきだと思っているだけ。)
励ますことしかできない無力感と、自分の感情を押し殺しながらの先の見えない日々に、私までまいってしまいそうだった。でもそのほの暗さを、夫には見せられない。
だから、好きなところを考えた。非婚主義だった私が、「かわいいなあ」「しあわせな暮らしだなあ」と、おおげさではなく毎日かみしめているのだ。その原点を思い出したいと思った。「結婚は人生の墓場」と高校1年生で公言し、相手のいない「結婚したい」という気持ちを理解できなかったのに、一生かたときも離れず一緒にいたいと思える人に出逢えて、相手も自分のことをおもしろおかしいチャーミングな子と思ってくれて、高1の時には無縁だと思っていた暮らしをおくることができている。「夫の好きなところ」は私が身につけたい資質だし、「ふたりの関係」は自分への肯定も他人の愛情も無いものとしてとらえてきた私がないものねだりと知りながら切望してきたあり方で、それを自分自身が身近に置けるだなんて。やっぱり今でも、悲嘆にくれることの多かった半生の運はここにすべて使い果たしたにちがいないと思う。
誇張ではなく毎日夫には感謝している。でも、どんよりが続くとつい自分が不遇と思ってしまうのだ。夫に向きすぎている矢印をそらし、自分を楽しませる何かでガス抜きをすることも必要。ただしそれはふたりの関係性という点では解決にはならないので、お互いに向き合ってより良い関係を続けている術を共通認識として持ちたい。
夫婦の愛情が持続するのは3年まで、とは、心理学的にもあながちでたらめではないらしい。カナダのある研究所によると、いつまでも愛情が減らない夫婦とは、お互いがお互いのことを理想化した目で見ている夫婦だという研究結果がある。これを「ポジティブ・イリュージョン」といい、相手のことをいい意味で歪めて見ている。だから、相手をいつまでも理想の人と認識することができ、愛情が長続きするのだそう。私は完全にこのマジックにかかっている。