自信がない人を(暫定的に)やめてみた日
端的に言うと飽きた、過去の実績に失礼、思い込みで世界はできているしつくるんだ
生来の繊細さに威圧的な生育環境が加わって、自信を持てないマンになってしまった。努力という概念がない(やりたいからやる、それを努力とは定義していない)ので、努力してきたと誇れることがなく、努力していない面も含め自分の能力には欠如しか感じないし、結果に満足したこともない。自分を適切に評価することは難しく、過大評価と卑下とを常に繰り返している。
仕事では自己評価も他者からの評価も避けられない。自己評価では、主観を排し事実だけを客観的に記す。今までのどの上司にも「なんでそんなに自信ないの」「何をそんなに恐れているの」と例外なく言われてきた。任せる側にしても不安要素になったのだろう。
人に相談しても結局自身の捉え方を上書きするしかないことは明白で、人に解決策を求めたことはなかった。相談もできない。自分の話をするのはただ相手の時間を奪うだけな気がして苦手だし、そもそも心の内を表面的にしか話せないままここまできた。
が、最近、友人との再会が続いた。キャリアの進路や仕事の捉え方など、点だけでは全貌を伝えられないがゆえ、意図せずに線で話す機会が立て続けに複数回あった。いままでなら、自分の奥深い内面や本音を話さない境界線をそれはもうきっちりと自分のなかで引いている。けれど話の流れと聞き上手な友の成せる業で、背景や現状をまるごと話いやが応にも話すことになってしまった。
すると、いままで感じたことのない爽快感に満ちている。スッキリ!
いままで何度も、内面を話そうと試みたことはあった。その度、的確に表現できない自分へのいらだちと、望んでもいないジャッジやレッテルとしか、あとに残らなかった。小学校2年生の頃から「人は人、決してわかりあえない」とドライにとらえるようになり、それに伴って表現する範囲や深度を変えた。だから、こんなにもなかば強制的にさらけ出す機会は、数えるほどしかない何度目かだった。それがこんなに、客観視と思考の整理と未来の希望につながるなんて。そして何度も話を重ねることは、現状をフィルターなしでとらえる訓練になった。
「自信が持てないうんたらかんたら」という他人にとってどうでもいい話を何人もに話している時点で、話の内容がいかに低俗かと痛感もした。10人中10人が爆笑するような面白ネタなら相手も楽しいところ、自信がない話なんて他人からしたらつまらないに決まっている。するとそんな話を繰り返す自分が情けなく、次第に飽きてきた。
誰もが親身になってくれたし、有益な助言と優しい思いやりしかなかった。だからこそ申し訳なくなった。だからこそ、「いくら話しても、変わるか変わらないかは結局自分の考え方次第」と思った。周りはこんなに寛容で、それに対して自信のなさを貫いているのは意志であり主体的行動なのだ。
そして、「同情してほしいんだっけ?かわいそうがんばってるね、って言ってほしいんだっけ?」と考えたら、答えはノーだった。
結局のところ「自信がないんだもんね、うまくいかないのもしかたないよね」と自分に言い聞かせていた。予防線を張り、理想通りにならない言い訳をあらかじめつくっている、とも言う。(言い訳してる、という考え方は自己否定でしかないしそれもある種傲慢だと思うので、言い訳という捉え方は普段から避けているけれど、それでも言い訳でしかない)
もう数十年この思考で生きてきているので、「今日から自信満々!無敵!」にはなりえない。だからこそ、思考をずらしてみる”ものは試し”をやってみたって、いまさらこれ以上悲劇にはなるまい。
自信がない病にまた陥った時用の覚書
①自信があってもなくても現実は同じだよ!だったら素直に肯定しよう!自信ないメリットない!
②自信がないという自己認識(事実かマインドかはさておき)はネガティブにしか働かないと思っていい、つまりマイナス(※慎重になったりリスク管理しっかりしたりなどプラスに働くこともあるけど、それはべつに自信ある状態でもできる!)
本当に飽きた。「俺が俺だぞ」でやっていこう。どうせそう見られるほどに演技はうまいのだから。印象操作もした者勝ち、どうせやるならば。
自分の感情や状態をメタ認知できているものの現状をそのままとらえるのがにがてな人、まずは心ゆくまで話すことをおすすめする!ただし相手選びがなによりもなによりも重要。相手は傾聴できる人、否定したり嫌な顔したりすぐ極端な結論を言ったりする人はだめ!相手選びは慎重に。