置かれた場所で咲くべきか問題

挫折で得られるメリットなんて、成功体験の前では意味を成さない
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私が最も嫌いな業務、それは「調整」。
他部署、クライアント、外部関係者、ステークホルダー、上司先輩同僚後輩部下、あらゆる方面に関係者がいるなかで、物事を潤滑に進めるためには調整は不可欠。
とにかく嫌いだった。否、現在進行形で嫌い。
目的やゴールが決まっているのになぜその達成という本質ではなく、”うまくやる”という手段の目的化につきあわなくてはならないのか……と常々思っている。おとななのでもちろんやるしできるし、なんならその役割を担うポジションとも言えるのだが、歴史とか感情とか一切抜きにして最短距離でゴールにたどりつきたい。
ここまで調整を嫌う、というよりもはや呪っているのは、過去の苦い経験から。
端的に言って、調整を生業とする企業の、調整を生業とする部署にいた時、まったくの役立たずのぽんこつだったというにがい記憶があるから。記憶というよりもはやトラウマ。思い出したくない。。
その時代に、「置かれた場所で咲こうとするよりも、咲ける場所にいることが重要なのだ」と痛感したのだ。私という人間性や知識や経験は変わらないのに、ある企業ではスター、ある企業ではぽんこつ。こんなことってあるのか、と呆然としたことを今も思い出す。とてもほろ苦く。且つ、繰り返すべきでない教訓として。
その落差を体験したことから、(すくなくとも自分にとっては)置かれた場所で努力しても限界があるうえに報われるかわからない、一方で呼吸するように働くだけで重宝され評価される世界はたしかに存在する、という実感が事実として君臨するようになった。
以来私の職業観はこの体験に根差してきたのだが、年を重ねてそうとも限らないのかもしれないと考える機会があった。
調整、進行管理、ガントチャート、アクションアイテム……そういった類のタスクはにがてだし向いていないしきちんとやり遂げられないと思っていたのだが、担わなければならない半強制的な機会があり。
トラウマがあるなか恐る恐るやってみたところ、むしろ向いているのではと思うぐらいにさくさくでき、こなせるこなせる。
以前より年数と経験を経たからできるようになったというのも大いにあると思うが、これが自分でも意外なほど苦手意識も感じずにさらっとできてしまい。
なぜだろうと不思議で、分析してみたところ、2つ気づいたことがある。
1つめ、目的がはっきりしていて共通認識として共有されブレずに進むかどうか。
2つめ、自分が主導権をもつかどうか。
1つめについては、まず目的なきプロジェクトが本当に本当に嫌いなのだ。本来存在しないはずなのである、目的のないプロジェクトなんて。でも始まって進んでいくと、本来のゴールがいつの間にか消えて目の前の調整が目的にすり替わっていることが多い。仕事のための仕事が増えるだけ。これ、嫌というほど目にする現象。関係者や、仕事しているパフォーマンスのために口だけ出す人が増えれば増えるほど。だれも意思決定の責任を追いたくないし。だからこそ、目的が明快で全員が理解している環境になっていれば、黒子的な立ち位置もやれるんだなあと。
2つめ、自分の立ち位置がクリアで、自分が負う役割と責任が明確なことが私にとってはカギだった。ただ単に間に落ちるボールを拾うなんでも屋になりがちなところ、そうなるかならないかを自分で定義しておくことなんだろうなと。主導権を握るとはマネージャーやリーダーという長のポジションにつくというわけではなく、自分でコントロールできる範囲を理解しておくということ。
その2つが今回は揃っていたので、望むと望まないとにかかわらず置かれた先でも咲けたのかもしれない。咲くのにはコツがあるのだね。発動条件というか。
それを知っておくことが選択肢になり、広げる手段として活用できるのだということを感じた出来事だった。
咲ける場所に出会えることがいちばん手っ取り早いとは今も思っているけどね。置かれた場所で咲くための方法を経験できてラッキーというお話、めでたし。